History
岡町・桜塚商店街の歴史
江戸
町場が成立。
江戸時代には、能勢街道と伊丹街道の交わる岡町一帯に町場が形成されていた。
明治
大正
町屋並びの中心地。
明治大正期には、原田神社を中心にして、神社正面の鳥居前から現在の府道伊丹豊中線付近まで、能勢街道沿いの区間、そして原田神社から西に、現在の阪急岡町駅までの旧伊丹街道沿いの区間、それぞれに商店街が形成されていた。特に能勢街道沿いの区間は町屋並びの中心地だった。
大正期から昭和の初頭ごろの東西の岡町の町屋は現在の岡上の町まで続いていた。原田神社を中心に能勢街道は商家のメインストリートであった。
昭和
初頭
岡町一帯に商店街。
昭和の初めごろまでは雑貨、和菓子、新聞屋、文具屋、うどん屋、料亭、酒屋などなどさまざまな商売を営む家が軒を連ねていた。
原田神社の大鳥居周辺から、南には和菓子店、八百屋、ふとん屋、畳屋など大正から昭和の商屋、職人さんの商売が繁盛していた。この辺りまでは関西落語の名作「池田の猪買い」の風情が残っていた。
昭和三年十一月三日漫画家手塚治虫さんが豊中町(現在の岡町)に、昭和六年九月十三日には映画監督山田洋次さんが中桜塚で誕生した。
その五日後、満州事変が起こり、日中戦争ごろから日用品が自由に買えなくなっていき、商店街もこれまでの賑わいがなくなった。
戦前、岡町駅東口前から商店街南側は道沿いに玉垣がぐるっと取り巻いていたが、原田神社は昭和二十一年に、玉垣を後退させて、店舗を建てて貸し出した。このようにして現在の岡町商店街が形成された。
昭和
後半
桜塚ショッピングセンターの建設。
戦前には桜塚市場が中心だった能勢街道東部は、市役所が昭和十三年に現在地に移って来てから、本格的な桜塚商店街が形づくられた。
昭和四十年には、桜塚商店街と桜塚市場が五十四店舗の桜塚ショッピングセンターを建設した。
一方の岡町商店街は大きな飛躍のないまま昭和時代が過ぎようとしていた。
現在
まちづくり協議会の結成。
現在は、豊中市内に相次いで大型店が開店する中で、岡町・桜塚商店街は若い商店主の発案で「まちづくり協議会」を結成し、岡町のにぎわいを再び取り戻そうと日々活動している。
POINTS OF INTEREST
歴史名所めぐり
能勢街道
能勢街道は大坂と岡町・池田・能勢方面を結ぶ幹線で、近世に入ると炭・薪・寒天・栗・銀銅・酒などの物産 が盛んに運ばれた道です。むかしは「大阪道」「池田道」「銀山道」などと呼ばれ、能勢妙見宮をはじめ服部天 神・中山寺などへの参詣路としても多くの人が往来していました。道筋には今も常夜燈や道標などを見かけますが、それらは当時の名残です。また、街道を巡ると周辺には名所・旧跡があり、四季折々の風情や歴史 を今に伝えています。
岡町
岡町は江戸時代の中頃以降、近在の村から原田神社の境地を借りて商売を始めた人々を中心に能勢街道に沿い「町場」として発展。幕末には豪商が出現するほど栄えます。明治以後豊中唯一の商業地となり昭和11年(1936)市制が施行されると、市役所、金融機関、警察などほとんどの公共機関が集まる市の中心地として栄えました。岡町は今でも史跡の数々とレトロな雰囲気を残しながら、人と人の出会い豊かな街としてにぎわっています。
鎮守の杜 原田神社
社伝によると白鳳12年(684)、天武天皇より神鏡・獅子頭の寄進を受けて創建され、室町時代の最盛期には摂津豊嶋郡榎坂村から川辺郡富松村までの72か村を信仰圏とし、「西牧総社」と呼ばれていました。天正6年(1578)、織田信長による荒木村重討伐の際に焼亡しますが、その後再建され、貞享6年(1688)、京都吉田家より「原田大明神」の神号を得て現在の社名になります。境内には慶安5年(1652)に再建された本殿(国指定重要文化財)、摂社十二神社本殿(市指定文化財)、大鳥居(市指定文化財)があり、銅鐸の出土、奉納俳諧額や算額などでも知られています。
原田神社秋季大祭
10月1日から10日にかけて催される獅子神事祭(市指 定無形文化財)。獅子頭は「オテンサン」と呼ばれ、主祭神である牛頭天王(素戔嗚命)の化身とされています。大祭期間中、悪疫退散を願い各氏子地区をまわります。宵宮では境内に大松明が焚かれ、各地区から布団太鼓や山車、神額などの練り物が入り、中でも神額は四面額状の行灯に昇り棒を取り付けた見事な造りで、見る人を圧倒します。そして石舞台を中心にくりひろげられる獅子追い神事がはじまると、祭りは最高に盛り上がります。
場所 大阪府豊中市中桜塚1丁目2
桜塚の地名はここから? 桜塚碑
この石碑は大正12年(1923)に建てられたもので、かつて桜塚古墳がこの場所に所在したことやその由緒などが刻まれています。桜塚地区には36墳の古墳が存在したといわれ、その一つと考えられます。旧桜塚村の有志が村名の由来ではないかと考え、碑を建て顕彰したもの です。
場所 大阪府豊中市中桜塚2丁目27
麻田藩陣屋の長屋門 中家
原田神社のすぐ西側の旧桜塚街道に面する中家の門は、明治5年(1872)に麻田藩陣屋(蛍池中町3)から移築された長屋門です。今も茅葺のままの原形が残されています。門内は非公開のため入ることはできませんが、門は通りに面しており、全体をながめることができます。詳細はわかりませんが、一般に長屋門は上級家臣などの住まいの表門に利用され、門の両側部分は使用人や門番などの部屋に利用されていたようです。
場所 大阪府豊中市中桜塚1丁目1
江戸時代から続く店 土手嘉
店は能勢街道と伊丹街道(市役所通り)が交差する神社の北の鳥居の前にあり、文政9年(1826)ごろに創業された岡町で最も歴史のある店です。店名は神社の「土手」(現在は玉垣)の前に店主が代々名前に嘉吉、嘉助など「嘉」の一文字を入れたことによるそうです。うどん屋のほかに酒造・製麺・製氷の時代もあり、広く配達もしていました。建物は昭和元年(1926)に建てられたもので、見上げると古風な外観で大きく当時の風情がただよってきます。
場所 大阪府豊中市岡町8丁目16
酒造り(銘柄「明輝」) 良本酒造跡
創業は文化元年(1804)ごろ、屋号はあぶらや(油家)でした。冬季は丹波の農家からくる杜氏(酒を造る職人)が10人程いました。良本家は能勢街道に面した総本家で、分家は醤油店を営んでいました。銘柄は「明輝」良質の酒で知られ十三や淡路(大阪市)辺りにも配達されていました。戦後、共同出資の会社をつくり、池田で「呉春」の銘柄で醸造し、良本は販売を専門とする店になりますが、昭和47年(1972)に廃業します。跡地には『能勢街道の沿革』などを記した道標が立っています。
場所 大阪府豊中市岡町7丁目
平安時代の仏像がある 瑞輪寺
もとは原田神社に付属する寺(神宮寺)で、桜墳山善光 寺(真言宗)と呼ばれる壮観な大寺院だったようです。天正年間、織田信長の荒木村重討伐の際、焼失しましたが、本尊・薬師如来と四天王像(いずれも市指定文化財)は焼失をまぬがれます。その後元禄年間、千呆禅師により黄檗宗寺院として再興され、寺名も瑞輪寺となり現在に至ります。
境内の史跡
俳人西吟の塔
西吟は江戸時代談林派の俳諧師として活躍し、井原西鶴の「好色一代男」の序文を書いたことで有名。岡町の落月庵に住み、弟子を育て俳諧同好者と交流します。原田神社には評者西吟の名前と選ばれた100句が俳諧奉納額にして納められています。
一休禅師の子紹偵の墓
童話「とんちの一休さん」で知られる禅僧一休宗純の子紹偵和尚の墓と伝わる僧塚があります。僧塚はもと大石塚の南東にありましたが、明治の終わりごろに境内の墓地に移されました。
場所 大阪府豊中市中桜塚2丁目2
ゾウの公園 桜塚公園
中央部に「竹とんぼ」のモニュメントがあり、正式な公園名は「桜塚公園」ですが、周辺のだれもがゾウの公園と呼んでいます。それはここに 子ども達に人気のかわいいゾウの滑り台があるからです。かつて豊中の 北部の丘陵地から中部の台地には、用水の確保のためたくさんのため池がありました。この公園は、もとは「上池」と呼ばれるため池でした。今は遊び場とみんなの憩いの場になっています。
場所 大阪府豊中市中桜塚2丁目25
楠木正成につながる 浄行寺
浄土真宗本願寺派、開基浄信は旧名を楠木正秀といい楠木正成(南北朝時代の武将)の第2子正儀の子に当たります。正秀は応永6年(1399)、兵を挙げて足利軍と戦いますが、敗れて走井まで逃れてきて、住人杉原氏の屋敷に身を寄せますが、杉原氏のすすめにより、時勢の行く末を深く悟り仏門に入り、ここにお寺を開きます。その後、杉原氏の原と楠木の楠をとって楠原と称し連綿今日に至っていますが、八世了慶の代に火災により古記録を焼失し、墓石も墓地内「顕彰碑」に「世をはばかり無銘にして遺す」とあります。
場所 大阪府豊中市走井1丁目2
古代豪族の墓 大石塚・小石塚古墳 (国指定史跡)
大石塚 (国指定史跡)
全長80m以上、後円部直径48m・高さ6m、前方部幅30m以上・高さ2.8mの前方後円墳です。3段構成の墳丘斜面に拳大の石(葺石)がふかれ、墳丘平坦面(テラス)には各段に円筒埴輪を中心とした埴輪列があったことが確認されています。築造は4世紀中ごろ、この付近には古墳が多くあり、その中でも最古の古墳に位置付けられています。
場所 大阪府豊中市岡町北1丁目5
小石塚 (国指定史跡)
大石塚の隣にあり、全長49m、後円部直径29m・高さ3m、前方部幅21m・高さ1.5mの前方後円墳です。墳丘上から壺形埴輪(市指定文化財)などの埴輪が出土。棺は形状から長さ約5mの割竹形木棺と推定されています。なお、大石塚古墳とともに二つの古墳の主はだれか不明です。
場所 大阪府豊中市岡町北1丁目6
戦国時代の城館 原田城跡
原田城は中世、主に室町から戦国時代に原田・曽根一帯 を中心に活動した土豪原田氏のいたところで、小規模な城館であったと考えられています。また、この辺りには北城(市指定史跡)と南城の二城があり、北城(現在地)は古く、16世紀後半代に一辺45mの主郭部、土塁、幅18m・深さ5mの巨大な堀を巡らせる規模に改修されています。この背景には天正6年(1578)、織田信長による荒木村重討伐の際、北城を荒木攻めの前線基地として利用したことが考えられます。なお、南城は北城から約200m隔てた南にありました。北城が荒廃した後の活動拠点になったようです。現在は住宅地になっています。
旧羽室家住宅 (国登録有形文化財)
原田城跡(北城)に昭和12年(1937)、個人の住まいとして木造二階建ての住宅が建てられました。和洋折衷の外観で、内部には和室・茶室の他に暖炉・ガス燈を備えた洋室・バルコニーなどがある昭和初期のモダンな建物です。
場所 大阪府豊中市曽根西町4丁目4
東光院「萩の寺」
天平年間に行基が開いたといわれる曹洞宗別格地寺院。江戸中期までは天台系の寺として北の東光院・南の四天王寺と称され、淀君に愛された寺であったとのこと。明治元年(1868)の神仏分離令による廃仏稀釈により、現造幣局の地にあった川崎東照宮の名称を継承。その後大阪の両替商・大商人などの講中により、北区中津から現在地曽根に北摂曽根別院として疎開をはじめます。大正3年(1914)の大授戒会により寺基の移転が完了します。この間当初曽根に住んでいた阪急電鉄創業者小林一三氏の移転への働きかけもあったとのこと。本尊は行基自作の薬師如来と後醍醐帝念持仏十一面観音とされ、また国重要文化財の 木造釈迦如来坐像、絵画東帯天神像(現大阪市立美術館 寄託)もあります。
句碑と萩の花 (国登録有形文化財)
境内には正岡子規・高浜虚子・相島虚吼・青木月斗・田村木国など有名な俳人の句碑が八基あり、手入れされた見事な萩の庭の中に立っています。萩は行基が本寺を創建したころから、大阪の地で付近に群生していた花を亡き人に捧げてきた歴史があり、千年の萩とされ北大路魯山人が命名した「萩露園」は大阪みどり百選に選定されています。
場所 大阪府豊中市南桜塚1丁目12
鉄製の武器・武具類が出土 大塚古墳 (国指定史跡)
古墳(国指定史跡)は、5世紀初めころに造られた直径56m、高さ8m以上、周濠幅約12mの大形の円墳です。3基のうち1基の棺内から鉄製のよろいと冑、刀剣、やじりなどの武器や武具類、銅製の鏡などが出土しています。よろいや冑は、当時の最先端の技法の革綴じ技法でつくられており、なかでも襟付きのよろいは全国的に希少な形態で知られ大王墓の多い古市・百舌鳥古墳群でもみられるものとのこと。大塚古墳に葬られた人物は、甲冑などの武具類を通して、当時の大王勢力と深い関わりがあったと考えられています。
場所 大阪府豊中市中桜塚4丁目15
御獅子塚古墳 (国指定史跡)
大塚古墳の50mほど南にある全長55m、後円部直径35m・高さ4m、前方部幅40m・高さ3.5m、周濠幅7mの前方後円墳です。大塚古墳に続いて造られたものですが、現在の墳丘は築造当時の姿に復元されたものです。2基の木棺が出土し、中から鋲留め技法のみられる短甲や冑などの武具、武器、銅製の鏡の他に埋葬された人物(性別不明)の遺骸(頭片と歯)が出土し、鑑定の結果壮年から熟年であったことがわかっています。棺外に置かれていた馬具は、朝鮮半島南部産とみられ朝鮮半島の国々とのつながりも推定されています。
場所 大阪府豊中市南桜塚2丁目2
南天平塚古墳 (国指定史跡)
御獅子塚古墳から南東へ200mのところにあります。5世紀末から6世紀初めころに造られたものと推定されています。現在はもとの墳丘の4分の1を残すのみになっていますが、調査により直径約20m、高さ約6m、幅約7mの周濠をもつ円墳であったことがわかっています。前代より小さくなり、後続の古墳も認められないことから、この辺りの古墳群が終わりのころに造られたものと考えられています
場所 大阪府豊中市南桜塚3丁目8
町屋の風情を残す 呉服屋高木邸
岡上の町は、能勢街道沿いに原田神社の境内地を越えて「岡町」とつながるところにあり、その先は豊中市本町になります。そこにもと呉服屋を営んでいた高木邸があります。現在の建物は、明治時代初期のものとされ、むかしながらの町屋の風情をとどめています。内部は改造されていますが、主屋には「虫籠窓(むしこまど)」と「厨子二階」(店の真上二階の部屋で天井が低い部分)などがあり、古い様式が特徴で、豊中市都市景観形成建築物第1号に指定されています。
場所 大阪府豊中市岡上の町1丁目2
金寺千坊 行基創建と伝わる 看景寺
豊中駅前を地元では刀根山道と呼ぶ商店通りを北側に入ったところに浄土真宗大谷派山号四明山看景寺があります。寺伝によると天平年間に行基がこの辺りに開創した金寺千坊の一つといわれています。当初は真言宗寺院で、承久3年(1221)には豊島蔵人高頼の長男高常が寺務を掌ったと伝えられています。天正6年(1578)、織田信長の荒木村重討伐の際兵火で焼失しましたが、江戸時代元禄11年(1698)になり現在地に移り再建されました。なお、境内には江戸時代終わりごろ、本町4丁目から出土した飛鳥時代の金寺廃寺塔刹柱礎石(府指定文化財)が移設されています。この辺りが古代・飛鳥奈良時代からの場所であり、かなりの人々がくらしていたことがうかがえます。
場所 大阪府豊中市本町3丁目14
刀根山御坊道標
刀根山公園(刀根山元町7)の下に二つの石碑が同じ場所にあります。むかしは多くの人が、行き先を案内する道しるべ(道標)をたよりに寺社にお参りしたり、旅をしたりしました。
「存覚上人御舊蹟」碑
主に大阪方面からくる人々に、存覚上人が開いた刀根山御坊へ案内するため、江戸時代の終わりごろ、長柄(大阪市)の住人が立てたとみられます。刀根山御坊は、もとは池田市石橋付近にお堂が建てられ、13世紀中ごろ当地に移り、江戸時代初期には本願寺の中本山(本山と末寺をつなぐ寺)となり、有力寺院として知られたようです。なお、天正6年(1578)、織田信長が荒木村重討伐の際、ここに砦(刀根山城)を築き、合戦に備えて自身がここまできたと伝えられています。
道標 「左妙見 池田へ」
能勢街道を豊中から刀根山を山越えする途中に立つ道標です。刀根山公園はもと皿池と呼ばれたため池で、池の横や付近は野道が交差すところでした。道標は高さ40㎝ほどの小さい石柱ですが、池田を通って能勢妙見へ参詣する人々のため、「茶所上町講中」というお茶づくりや茶店をもつ信者の集まりが立てたものです。
場所 大阪府豊中市刀根山元町7
- 参考文献・資料
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- 新修豊中市史第7巻(民俗)豊中市
- とよなか歴史・文化財・ガイドブック 豊中市教育委員会
- 郷土資料 豊中の史跡たずね描き 福西茂著
- 資料集録『聞き書き』とよなかの史跡巡り 瀧健三著
- 制作協力
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- イラスト・地図 ・・・ 木戸りんご
- 文(解説) ・・・瀧健三
- 写真 ・・・藤野秀樹
(尚、本ページ掲載の解説・歴史の経緯には諸説あり、文献・口伝をもとに編纂したものとなります)